「自画像のゆくえ」 森村泰昌

本書は、新書としては異例の600ページ超えで、本体価格も1500円+税と超弩級。なぜ新書のかたちで出版したのか謎で、単行本のほうが読みやすかったような気がする。表紙はゴッホの自画像に扮した著者のセルフポートレート。表紙の写真を見てもご本人だとは分からないけれども。本書は600年にわたる「自画像」の歴史をたどって、「わたしとはなにものか」という難問に対する見つからない答えを探る。「自撮り」全盛時代に対する「自画像」のありかたも考察している。

本書で取り上げている画家は、ファン・エイクから始まり、デューラー、ダ・ビンチ、カラヴァッジョ、ベラスケス、レンブラント、フェルメール、ゴッホ、フリーダ・カーロ、アンディ・ウォーホル。第九章になりやっと日本人が描いた「自画像」が取り上げているが、分量としては少ない。絵を描かない管理人にとって、フリーダ・カーロとアンディ・ウォーホルの章が面白かった。

あとがきによれば、第九章はあいちトリエンナーレ2019における「表現の不自由展」騒動にたいする、著者なりのリアクションも意識して書かれたそうだ。この章では松本竣介について多くのページが割かれている。1941年の美術雑誌「みずゑ」1月号に『国防国家と美術』と題された軍人と美術評論家との座談会に対する反論を松本竣介は同じ雑誌の4月号に『生きてゐる画家』として書いた。その座談会おいて、軍人が芸術家といえども好き勝手に絵を描いているだけではなく国家の一員として貢献できる仕事をすべきではないかと投げかけ、美術評論家たちがそれに賛同して終わった。これにたいして松本竣介は「国家への貢献というのも多様であって、それを単一の色で塗りつぶすようなことには反対だ」という内容で反論する。文章では曖昧になっているところがあるのは時局を考えたものであろう。松本竣介は普遍性をもった絵を描くことを目指した。現代日本美術ではグローバリズム化がすすみ、西洋東洋の区別が無く普遍妥当性を持ったように見える。はたしてこれは正しいのか。

 竣介もいうように、日本の洋画は「フランスの出店」などとらかわれ、所詮は西洋のモノマネであり永遠に二流であるなどという、辛口の批評がながく流布されてきた。その批判にたいし”本場”に負けない作品をつくりたいと、どれだけおおくの近代日本の洋画家たちが、見はてぬ夢を見つづけてきたことだろう。その夢がやっと実現できたとしても、その意味するところが、グローバリズムのなかでいかにして成功するのかというノウハウに精通することであったり、世界に通用する売れっ子作家になるkとであったり、世界の名だたるアートフェアで作品が高額で取引されることであったりと、結局そういうサクセスストーリーに収斂していくのだとしたら、あの『生きてゐる画家』を書いた松本竣介は、はたしてこれをよろこぶだろうか。

以前はセルフポートレートと呼んでいた写真が、スマホとSNSの登場で「自撮り/セルフィー」が盛んになり、「自画像」が大量に生み出されている。コスプレイヤーも「わたし」を撮るという意味では自撮りの範疇に入るかも知れない。自画像表現が属する芸術世界の一歩手前に留まることによってこそコスプレはコスプレたりえると著者は述べているが、管理人にはエヴァンゲリオンのコスプレとゴッホに扮するセルフポートレートとの違いがいまいちわからない。コスプレイヤーがゴッホになるのはコスプレになのか自画像表現になるのだろうか。

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