「実歴阿房列車先生」 平山三郎

本書は内田百閒の『阿房列車』に「ヒマラヤ山系君」として登場している著者の内田百閒に関する随筆集。気難しいと言われていた内田百閒と一緒に旅をする「山系君」は余程できた人なんだろうと管理人は漠然と思っていた。著者は内田百閒の本の校正も行っている。内田百閒は著者に厚い信頼を寄せていたのだろう。「ヒマラヤ山系君」がいなければ『阿房列車』はあんなに続かなかっただろうと思う。

最初に著者が百閒先生に会ったのは、国鉄の奉公運動機関誌『大和』への原稿依頼だった。新米の編集者にとっては難題で、「先生の存在はわたしには畏敬というより、恐ろしい気持の方がつよい」らしかった。当時百閒先生は日本郵船の嘱託だった。いろいろ根回してから郵船の百閒先生の部屋を訪ね、原稿依頼をしたところあっさり承諾された。それもどうせなら毎月連載のほうがいいと言われ著者は拍子抜けがしたと書いている。

『阿房列車』は有名な観光地へ行くこともなく、名物を食べ歩くということも少なく、用も無いのに列車に乗ってお酒を飲んで帰って来るだけなのに無類に面白い。本書はその『阿房列車』の随行記なので面白くないはずは無い。この二人のコンビではないと『阿房列車』は成立しないだろうと思わせる。それは著者の百閒先生へ尊敬と百閒先生の著者への信頼が成り立たせている関係であった。当然ながら管理人は百閒先生に会ったことはないけれど、本書を読んでいて百閒先生はそんなに気難しくもなく恐いひとでもないような感じをうけた。

晩年、百閒先生は横臥したままになり、シャムパングラスにストローを入れて飲んでいた。著者はストローは真っすぐで飲みにくそうだから、曲がるビニールの管様のものを百閒先生へ持って行く。百閒先生は余り気に入った様子がなかった。夜遅く訪れると百閒先生が飲み残したシャムパンが瓶の半分ほどと、お盆の上にビニール製の曲がったストローが置いてあった。

 子供の時から汽車が好きで好きで、段段年を取ったが、汽車崇拝の気持ちは子供の時からちっとも変わらない。外の事では随分分別がつき利口になっている様だが、汽車というものを対象におくかぎり、余り育っていないと自分で云っている。余り育っていないと自認するその先生が、東京駅一日名誉駅長になったのは、ちょうど二十年前の鉄道八十周年記念の行事で、金筋の駅長帽をすこし面映ゆく、しかし、元気で、そして大層なご機嫌だった。その昭和二十七年を前後にして、北海道をのぞく全国の阿房列車行脚が開始されたのだが、ひまつぶしにその走行キロを計算してみたら、二萬五八〇〇キロ、網走・鹿児島間を四往復半したことになる。いまさらあきれる外はない。その間、うつり過ぎる車窓の四季おりおりの風光をあかず眺め入ったわけで(食堂車にいた時間も相当あるが)あきれるとともに、哀愁をおびた汽笛のひびき、煤煙の匂いがなつかしくないこともない。

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