「紋切型社会」 武田砂鉄

アップした「日本の気配」のエントリーを消してしまい、何を書いたかも憶えていないので、後から読んだ本書のほうを先に紹介。サイトをリニューアルしたときに間違ってデータを消したのかどうかも憶えていない。データはちゃんとバックアップしておきましょうと自分に言い聞かせる。

本書が著者の初著作。初著作で第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。選考委員の藤原新也氏によると本書は「文化人類学的ジャーナリズムという新しいジャンル」。とにかく今日本には紋切り型の言葉が溢れている。東日本大震災後には「絆」や「ガンバロウ」が枕詞のようにどんな文章にも現れた。アイドルが激励のため災害被災地へ行くと「逆に励まされた」「元気をもらいました」と感激し涙する。「24時間テレビ」では障害があるひとが芸能人と一緒に登山したり、ダンスをしたりしてそれを見たひとが「感動をありがとう」「勇気をもらいました」。オリンピック、高校野球、箱根駅伝、ラグビーW杯ect.では感動物語を試合と関係なく盛り込まれる。

政治の世界では日本のジャーナリズムが機能しなくなってきている。大臣が不祥事をおこし辞任する時、首相は「任命責任はわたしにあります」と必ず答えるが、別の人を任命するのが「任命責任をはたす」ことなのだろうか。官邸の番記者も「任命責任」について突っ込んで質問する記者がいない。失言の多いあの大臣が同じ失言を繰り返しても、強面で「不快に思われる方々がいるなら撤回します」と謝罪してもとても反省しているようには思えないのに記者はそのまま記事にする。官邸や警察の発表をそのまま垂れ流すのでは、ジャーナリズムとして思考停止状態である。

インターネットが普及しはじめた頃、新しい自由な世界が開かれるのではと思われたが、実際は違った。著者は、SNSのように人と人とが大雑把につながった社会では、批評が介在しにくくなったと述べている。大雑把なかかわり合いでは、煙たい話よりイイ話が持ち上げられる。メディアは「大雑把につながっていますから、もう批評はいいでしょう」と議論を諦める。紋切り型の言葉に抗うための批評として本田靖春と竹中労を著者は紹介している。あの頃は確かな批評があった。が、昔を羨んでもしかたがない。どのように批評性を取り戻すのか。

 本田靖春や竹中労が物言う世界に蠢いていた時、どんな相手であろうと刃向かうためには外へ出て対峙しなければいけなかった。WINとWINはこれまで「-」でつながっていなかった。対象に向かう切実さがあった。知らない相手にぶつかっていくからこそ広がった視界があった。抽象や間接の欠片から具体を掘り起こしていった。
 本田は自身を「拗ね者」と呼んだが、今、拗ね者はひとまず腫れ者にされる。大雑把につながっている人たちにとって、まったく悔しいことに、拗ね者は厄介を呼び込む存在と規定される。悔しい。その場で起きていることが、舐められている。紋切型の言葉で片付けられる。未来あるいは今を一新するプランニング、そういう視野の広さばかりがウケる。流れている現在を掴まえるために、ありきたりの言葉を投じて一丁前を気取ることを決して許さなかった人たち。言葉で固まる現代を解きほぐすために鋭利な言葉を執拗に投じ続けた人たち。彼らは決して、”ハッピー”という帰結を目指しはしなかった。だからこそ、その言葉は今なお消費されないし、奮い立たせる言葉として神通力を持つ。人の気分をうまいこと操縦する目的を持った言葉ではなく、その場で起きていることを真摯に突き刺すための言葉の存在は常に現代を照射し続ける。いかに言葉と接するべきか、言葉を投じるべきか、変わらぬ態度を教えてくれる。言葉は今現在を躍動させるためにある。

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